寺院紹介

•上願寺とは

上願寺岡山県岡山市北区下高田にある天台宗の小本山。
奈良時代天平勝宝年中(750年代)、岡山市芳賀で生まれた報恩大師により開基。鎌倉時代初期建久年中(1190年代)葉上僧正(後の栄西禅師)により中輿、室町時代後期に再興された。

 

現在の本堂は1834年(天保5年)に建立。吉備地区の修行道場であった。

足守藩木下家の祈願所(足守より東北になり鬼門になる)で、現在も寺の門に木下の家紋がついている。
本堂には、薬師如来という仏様を安置しており、昔旅人が、出雲の国(現在の島根県)にある一畑薬師にお参りした際、備中(現在の岡山県)から来たことをつげると『備中には上願寺という寺に、すばらしい薬師様があるので、そちらへ参ってはどうか。』と話したとのこと。

本尊薬師如来は慈覚大師作、脇士の日光菩薩・月光菩薩・十二神将及び外陣にある天台大師・伝教大師(最澄)の像は運慶作と伝えられる。

木下の家紋

木下の家紋

十二神将

十二神将

上願寺 仁王門

上願寺 仁王門

・上願寺と梵鐘(県指定重要文化財)

岡山県岡山市北区下高田にある上願寺は、醫王山薬師院上願寺というが、この寺名は元禄十ニ年日光山御門主から賜ったもので、古名は当意山大龍寺薬師院と呼ばれていた。
天台宗のこの寺は、報恩大師が奈良時代の天平勝宝(749〜757年)のころ開基したという古い歴史のある寺である。
備中誌によると、建久5年(1194年)鎌倉時代に栄西上人が開山し、土御門皇子の誕生を祈願したこともある。
隆盛期には、西明坊、真如坊など12の坊堂があったが、戦火で焼失した。
今は、4代藩主木下利当の寄進により再建された本堂と実相坊(すぐ隣の実相寺)と内中之坊(足守宮路橋の東下の地蔵院)の3寺が残っているのみである。
足守地区内には上願寺の末寺や、社僧であった神社など上願寺の隆盛を示すものが多い。
本堂の祭壇、仏像そして天井いっぱいの格天井の中に描かれた絵画など、昔の面影を留めている。

天井の絵画仏像薬師如来

梵鐘(県指定重要文化財)

さて、県の重要文化財に指定されている梵鐘であるが、山門から石段を登り切り、本堂の左前に鐘楼がある。梵鐘は鎌倉時代に作られた青銅製で、大きさは、高さ78㎝、口径47㎝で、あまり大きくはないが、形も良く銅張りもあり鋳上りも美しく雄大な荘重感もある。
梵鐘この鐘に次のような銘が刻んである。
『備中国大井御庄、清水寺敬主院幸円、正中二乙丑天正月廿日、大公、吉村弘真』。
この銘文から、鐘は岡山市北区上高田の清水寺敬主院(平清盛が造立したといわれる寺、現在の観音院あたり)にあったもので、天正7年(1579年)、忍山城の戦いでその戦火をあびて焼失した清水寺から、
いつごろか上願寺に移ってきたものである。
鐘とは逆に、上願寺にあった室町時代の立派な石灯籠(銘文に、上願沙門玄充、敬白、三界萬霊、平等利益、文安5年戌辰7月14日)は、岡山市門田屋敷の星島邸にあるという。
※文安5年とは、1447年、室町時代である。

上願寺の梵鐘(県指定重要文化財)

重要文化財に指定されている梵鐘この梵鐘はもともと岡山県岡山市北区上高田の清水寺敬主院(平清盛が創設した寺という)ものであったが、忍山城の戦いのとき寺は焼失し、鐘はいつの頃からか上願寺へ移されていた。
梵鐘には『備中国大井御庄、清水寺敬主院幸円、正中二乙丑天正月廿日、大公、吉村弘真』と銘が刻んである。高さ78㎝、口径47㎝の青銅製で形姿が優れ荘重感がある。
※正中二は1325年である。